釧路建交会の設立

 昭和30年代、当時の釧路市建築課に出入りする若手建築関係者の有志数名が、情報交換や交流を行っていたが、親睦団体結成への気運が高まり、1962(昭和37)年5月16日、釧路建交会の設立総会を開催、発足した。
 初代会長久保下保氏(北東建設)、加盟13社
 同年5月25日、当時の釧路市労働会館で釧路市の建築関係幹部を迎え設立総会を開催。以降、毎月例会を開催し、民間工事の得意先尊重労働単価の調整などについて検討していた。
 翌年3月に濁沼英子氏(宮脇土建)が会長就任。

釧路市建設事業協会の設立

 1964(昭和39)年、当時、釧路建設業協会の工営部会の有志数名から釧路建交会への入会希望があり、同年1月16日に臨時総会を開催、業界を取り巻く意見交換が行われ、会員を当時の釧路市工営部の指名業者を範囲とすることを決定、会員に土木業者も加盟、建築・土木両者の調和が図られることとなった)
 一方、当時は釧路建設業協会会員が建築土木事業を担っていたこともあり、釧路建交会への圧力もあったと言われる)さらに、釧路市の事業受注に際しても厳しい状況に置かれていたことからも、組織を守り、研鑽を積み、建築・土木両者のさらなる調和を図り、地元業者が一致団結していく気運が高まった)
 同年末には釧路建交会会員数28社を数え、その後も釧路市に対する陳情活動などを実施する) 1971(昭和46)年1月、釧路建交会と釧路建設業協会などで、新たな組織発足に向けて協議された)その中で、釧路建交会と、釧路建設業協会工営部会から名称変更となった市役所部会を解散して新組織設立を決定)同年2月に再度協議を行い、新組織設立準備に入った)
 新組織設立に向けては、当時、新たな組織の必要性を疑問視する厳しい意見も業界内にあったが、同年2月12日、釧路商工会館で釧路建交会と市役所部会との合併総会を開催、38社が加盟し新組織を釧路市建設事業協会とした)初代会長に菅原武氏を選出した)

建設事業を取り巻く厳しい環境

 当時の釧路市内のインフラの整備状況は、市道は未舗装が多く、下水道も未整備といった状況。市道舗装率は14.4%、下水道普及率は実に6.9%といった状況だった。協会設立以前は、企業個々で価格交渉することもあったが、設立後は協会として交渉に向かった。一方で、国内が高度成長期の中で、釧路市の景気も水産業を中心に上向きで、建設関係の事業も民間の発注が増えてきた。釧路市発注の公共事業と言えば、価格の折衝もできずに、当時の革新市政時代の公共事業は業界にとっては厳しい状況が続いた。

鰐淵市政誕生で転機

 この状況が大きく変わったのは、1977(昭和52)年の釧路市長選挙で勝利した、鰐淵俊之市政誕生による。社会資本の整備が遅れていた中で、一気に整備への舵を切ったことで、釧路市の公共事業の発注が増加した。中でもほぼ未整備だった下水道整備事業の建設計画は当協会会員にとっては、社業の発展にも好影響を与えた。下水道整備に関しては当協会内の土木経営委員会で独自の指針を策定し、釧路市下水道工事施工要領として、その後の事業推進に大いに貢献することとなる。その後も、社会資本整備は順調に推移し、市立釧路総合病院、生涯学習センターなどの公共施設の建設も進み、それぞれに会員企業も参加している。

厳しい財政状況での数々の取り組み

 国内の公共事業への予算は、国の構造改革に伴う行財政改革、省庁改編で北海道開発庁が廃止されるなど規模は縮小、小泉内閣の三位一体改革、規制緩和などにより地方自治体の建設費も減少してきた。
 当協会はこの状況の中で、建設業の構造改善事業の推進や経営管理の近代化(IT情報技術の研究)、くしろ元気ファンドの強化推進に取り組み、民間活動の活用及び行政に対する提言、中心街活性化対策の研究等も事業計画に盛り込み、特に2004(平成16)年度からPFI事業の研究も始めた。
 同年、当協会会員68社が参加して、釧路市除雪連絡協議会が設立された。また、当協会において新潟県中越地震の被害者に対し義援金を贈呈した(20万円)。
 2005(平成17)年度は1市2町の合併による新釧路市建設への調査研究を掲げ、釧路根室圏総合体育館建設協力として建設協力募金100万円拠出した。この年の除雪連絡協議会加盟会員は68社と増えたが、これ以降、参加会員は減少傾向となる。
 2006(平成18)年12月4日、当協会(村井順一会長)と釧路市(伊東良孝市長)との間で、災害時における釧路市所管施設等の災害復旧業務に関する協定を締結。この協定に基づいて災害時の緊急対応や復旧に当協会会員が参加、今日まで釧路市の安全安心なまちづくりに大きな役割を果たしている。

阿寒、音別両建設業会との合併

 すでに2005年に釧路市と阿寒町、音別町との合併により、新たな釧路市がスタートしていたが、両町共に建設協会が存在しており、当協会との合併が課題となっていた。そして、2008(平成20)年2月に臨時総会を開催、両町の協会員の入会と会費の算出方法などを協議、同年両協会との合併を果たした。

釧路市独自のPFI事業への取り組み

 当協会は2004年以降、民間資金の導入による公共事業のPFI事業に就いて研究を続けてきたが、2011(平成23)年、ついに同事業が動き出すこととなる。
 釧路市のPFI事業は、国や地方自治体などの公共が提供していたサービスを民間主導で行うことで、公共施設などの設計、建設、維持管理、運営の民間の資金とノウハウを活用して、効率的で効果的に社会資本を整備し、安価で良好な公共サービスを提供するというのがPFI事業。釧路市は地域経済の低迷など財政状況が厳しさを増し、課題解決のため財政健全化推進プランを策定。短期間で多額の財源を確保する発用がある従来型の発注方法では懸案だった学校耐震化が厳しい状況だったため、耐震化推進の有効な取り組みとしてPFI事業の導入を決めた。釧路市は契約を結んだ民間事業者が施設を改修し、管理・運営する事業方式で、所有権の移転がなく、自治体が所有者となるRO方式で釧路市立学校施設耐震化PFI事業として、2012(平成24)年度から小学校10校、中学校5校で事業を実施した。学校施設として耐震補強事業と大規模改造事業を同時にPFI事業で実施するのは全国で釧路市が初めて。
 当協会は、2004(平成16)年度の事業計画で初めて民間資金の導入の研究推進を掲げ、以降、導入への研究を進めた。2011(平成23)年には、釧路市側から文部科学省が1981(昭和56)年以前に建設された学校の耐震化計画に基づいて、当協会と管設備事業協会、電気設備事業協会、建築設計事業協会などに対して説明会を開催。この中で、阿部信之会長(阿寒共立土建社長)の指導のもと当協会に会員企業の専門担当者で構成する特別委員会(委員長・浅利晴芳浅利組社長)を2011(平成23)年に設置した。研究を重ねた結果、短期間で多額の財源を必要とするこれまでの発注ではなく、民間資金を活用した釧路市独自方式のPFI事業の実施を決めた。そして、翌年度から第一期として城山小、桜が丘小、春採中、鳥取中の4校が村井建設を中心とした13社で構成するグループが受注(契約金額43億6000万円)、第二期工事その1として、平成26年3月より武佐小、美原小、興津小、桜が丘中、美原中の5校が宮脇土建を中心として14社で構成するグループが受注(同45億5000万円)した。同年、第二期工事その2として鳥取小、共栄小、昭和小、鶴野小、山花小中、大楽毛中の6校を坂野建設中心の15社で構成するグループが受注(同54億4000万円)。2016(平成28)年10月までに大規模改修を含む耐震化事業は終了した。
 特別委員会の委員長を務めた浅利当協会副会長は事業を振り返り「工事は学校と言うこともあって放課後、土日が中心で、夏休みや冬休み、春休みに安全に配慮し、集中して実施した。オール釧路で事業を実施しようという阿部会長、この方式を実施させた蝦名市長のリーダーシップが大きかった」と語り、当協会会員にとってはもとより、他の工事関係業者にとっても画期的な取り組みとなった。

担い手不足や働き方改革への対応

 建設業界を取り巻く環境は、働き方改革や情報化社会の進展で変革期を迎えてきた。特に働き方改革に伴う勤務環境、若手技術者不足が顕著となり、当協会は2015(平成27)年度事業計画に、担い手三法を考慮した建設業の構造改善事業の推進を掲げ、地域建設業若年者入職促進PR事業の取り組みを始めた。この取り組みの一環とも言える中学生を対象とした建設業に関する作文コンクールを2017(平成29)年度から始め、5回目となった本年も釧路市内の多くの中学生が作文を寄せている。
 個々の建設事業者が、業界の発展のため一致団結しようと当協会を設立、8人の歴代会長のもと数々の紆余曲折を乗り越え本年半世紀の歴史を迎えた。